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東京都−港区−田町駅周辺【納涼盆踊り大会】

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男は、偶然田町で行っていたお祭りに参加した。

盆踊りが懐かしくついつい参加してしまった。

こういったお祭り自体が、神様に捧げるものであるから、仏閣辞典に掲載する事とする。
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【智積院】京都府-京都市-東山区-東大路通七条付近

 

この寺は、山号を五百仏頂山と言い真言宗に革命をもたらした覚鑁の起こした新義真言宗の塔頭の一寺であったが、根来(ねごろ)寺の再興に尽力した寺である。

新義真言宗の系列は智積院(智山派)・豊山派(長谷寺)・生寺派があり、疲弊した真言宗再興に尽くした覚鑁の流れをくむ。

根来寺は高野山をも凌ぐ真言宗の一大拠点であったが鉄砲隊などがあり、その武力を恐れた豊臣秀吉により1585年全山が焼討ちにあう。

秀吉の攻撃に根来を逃れ長谷寺を起こした妙音院専誉と智積院玄宥(げんゆう)は同宗再興の祖で、特に玄宥は徳川幕府に新義真言宗再建を願い出て、豊国神社の一部と寺領200石を受け現在地に智積院を建立した。

徳川幕府の信頼は厚く豊国神社の建造物・文化財を受け取る、秀吉が棄丸のために建立した祥雲寺の堂宇や金碧障壁画などに寺宝を与えられ寺領も大幅に増加して智積院の礎が固まる。

智積院は新義真言宗の学問所としての性格が強く優れた人材を育成するが、1682年の火災で諸伽藍を失うが東福門院の堂宇を移築して1685年復興する、しかし1869年勧学院・1882年金堂を1947年には客殿・宸殿を火災で失う。 智積院は大須観音(名古屋)・成田山新勝寺・川崎大師平間寺・薬王院(高尾山)などの著名寺院を傘下に三千寺あまりの末寺を持つ。

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住所:京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町964
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【妙法院三十三間堂】京都府-京都市-東山区-京阪五条駅付近



山号は南叡山と言い皇后門跡・新日吉門跡(いまひえ)とも言い曼殊院三千院青蓮院・毘沙門堂と共に京都五箇室門跡の一寺である、また延暦寺三千坊の一つであり最澄の創建とされる。
妙法院であるが天台三門跡の一院であるが境外仏堂で傘下の蓮華王院(三十三間堂)の方が馴染み深い。
12世紀中頃は仏像を多く製作することでご利益があると言う信仰から、蓮華王院・得長寿院(聖観音)・白河阿弥陀堂などの千体佛堂が建立された。
当院では後白河法皇の院宣により平清盛によって完成された、これは法皇が院政を司る為に建造された所で広大な敷地を有し法住寺殿と命名され蓮華王院御所とも呼ばれた、不動堂・千手観音堂・念仏堂・北斗堂・五重塔など大伽藍の中央付近に建てられた堂で当時は法住寺殿千躰観音堂と呼ばれていたが1183年木曽義仲に攻撃され蓮華王院のみを残して灰燼に帰す。
更に1249年の大火では、ほとんどの堂宇を失うが避難することが出来たとされる仏像は風神・雷神・二十八部衆・百二十四尊の千手観音と言う。(風神・雷神・二十八部衆と千手観音・百二十四尊は異説もあるが湛慶以前の作品かとされる)この創建当初からとされる像群は康朝の父か師にあたる康助の作品が存在する可能性が高い。
現在の本堂は1266年に再建された堂宇であるが前面が板扉で側面背面は連子窓で内部は二重虹梁蟇股、小屋組みは化粧天井で構成された本堂は ・大報恩寺本堂 ・石山寺多宝塔 ・西明寺三重塔など共に和洋建築の代表作として挙げることができる。
創建当初は多くの荘園を持ち繁栄を謳歌したが中世末には寺領収入も減少で寺運も衰退し豊臣家滅亡後に妙法院の傘下に入る。
千躰観音像の復興には佛師の頭として中尊を担当した湛慶と自作の九尊や慶派の康円・行快・康清・栄円等、円派の隆円・昌円等、院派の院継・院遍等などが参画しており大きさ、姿は規格化されているが、当時日本を代表した佛師三派の競作が一堂に見ることが出来る。
本堂の内陣の柱間が三十三あるために三十三間堂と呼ばれているのである。


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【六波羅蜜寺】京都府-京都市-東山区-京阪五条駅付近



この寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。

当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。

(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している) 現存する空也上人の祈願文によると、応和38月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。

これが当寺の起こりである。

上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。

平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。

源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。

徳川代々将軍も朱印を加えられた。

現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。

なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。


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【金地院】京都府中京区水道浄水付近


この寺は、南禅寺の塔頭で、応永年間(13941428)に足利義持が北山に創建したのに始まる。

さらに、慶長始めに徳川家康の参謀として知られる以心崇伝が南禅寺塔頭として現在の場所に移した。

境内には東照宮が置かれている。

方丈は入母屋造り、柿葺の方丈は伏見城の遺構を移築したもので、各室内の狩野派による襖絵が有名である。

6つの窓が設けられた茶室八窓席は金地院庭園とともに小堀遠州によるものである。

東照大権現(東照宮)を拝するように作庭された方丈庭園は別名鶴亀の庭園といい、桃山時代の風格を今に伝える江戸初期の枯山水庭園である。

全面に覆われた白砂は海を表し、右手に仙人を乗せて羽ばたこうとする鶴の姿を彷彿とさせる鶴石と、左手に不老不死の島と伝わる蓬莱山を背負った亀を表す亀石が配されている。

その中間には仙人がいるという島々を象る石が配置され、崖地を利用した蓬莱石組である。

さらに背景の木々は幾重にも折りかさなる山々を現している。

庭園は国の特別名勝に指定されている。 

光秀が寄進した明智門 金地院に入るとすぐに「明智門」なる門が。明智光秀が母の菩提を弔うために寄進したお金で大徳寺に立てられたのを、明治時代に移築したものである。


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【広隆寺】京都府-中京区-五条大橋付近

 
この寺は、推古天皇によって603に建立された山城最古の寺院。
四天王寺、法隆寺等と共に聖徳太子建立の日本七大寺の一つ。
日本書紀によると、秦河勝が、聖徳太子から仏像を賜わり、これをご本尊として建立したとある。
秦氏族は、第
15代応神天皇16年に日本に帰化したのち、養蚕機織業を中心に大陸や半島の先進文明をとり入れ当時の地方産業発展に努めた人物である。
広隆寺に納められている十二神将像(国宝)は、
定朝の弟子である仏工長勢の作と伝えられる。
薬師如来の守護神であるから十二体とも、それぞれお顔は怒りをあらわし、身に甲冑をつけ手に剣・弓・矢などの武器を持ち、岩座上に立っている。
つぎに、西に位置する広目天立像(四天王の一つ・重文・藤原)、阿弥陀如来像や不動明王坐像、聖徳太子十六才像(重文・鎌倉・像高
83cm)などが並ぶ。
そして、国宝第一号である弥勒菩薩半跏思惟像を中央に、左手に弥勒菩薩坐像(重文・天平)、右手に弥勒菩薩半跏思惟像(百済伝来・国宝・飛鳥)の三体が安置されている。
この寺の創建にかかわる逸話が『日本書紀』に記されている。
603年11月聖徳太子は群臣を前にして、「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏を祀るものはいないか」と尋ねられた。
そのとき秦河勝が「私が祀りましょう」と名乗りで、仏像を拝領した。
そして、その仏像を祀るために建てた寺が、今の広隆寺の前身である蜂岡寺である、と答えた。
836年(承和3)作成の『広隆寺縁起』は、別の創建伝承を伝えている。
あるとき聖徳太子は秦河勝に次のような話をした。
「私は昨夜、不思議な夢をみた。香ばしい香
りに満ちた桂の林の中に大きな枯れ木があり、五百羅漢がその下に集まってお経を読んでいる。枯れ木からは大光明が放ち、羅漢の読経が微妙な声で仏法を説いているように聞こえ、まことに格別な霊地に思えた」。
すると、河勝は「その場所は我々が住む葛野です」と答え、その場所へ聖徳太子を案内した。
そこでは、大きな桂の枯れ木の周りを無数の蜂が飛んでいて、その蜂の群は羅漢が説法しているように見えた。
そこで、仮宮殿を造って楓野別宮となずけ、河勝に命じて蜂岡寺を建立させた。
楓野別宮は桂宮院のことであり、現在の建物は鎌倉時代の再建だが、国宝建造物として広隆寺の奥に建っている。



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【養源院】京都府中京区水道浄水付近


この寺は、文禄3(1594)、豊臣秀吉の建立されたものです。


しかし焼失し、元和7(1621)、伏見城の遺構を移し再建されました。

本堂の廊下の天井は血天井と伝えられます。

伏見城が落ちた際、鳥居元忠らが自刃した廊下の板が使われています。

本堂の杉戸に描かれた白象や唐獅子、キリンの絵は、俵屋宗達の筆と伝えられています。

狩野山楽の障壁画もあり、豊かな歴史をかいま見ることができます。豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の追善の為、長政の二十一回忌に秀吉に願って養源院を建立し長政の従弟で叡山の僧であった成伯法印を開山とし、長政の院号を以って寺号としたのは文禄35(1594)です。其後程なく火災にあい、元和7(1621)徳川秀忠が夫人崇源院殿の願により伏見城の遺構を移建したのが今の本堂です。

以来徳川家の菩堤所となり、歴代将軍の位 牌を祀って居ます。

血天井は、この本堂の左右と正面の三方の廊下の天井は伏見城落城の時、鳥居元忠以下の将士が城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を天井として其の霊を弔ったもので世に血天井と称して名高い。

宗達襖杉戸絵は、この本堂の襖(十二面)杉戸(八面)の絵は俵屋宗達の筆で、自刃した将士の英霊を懸める為に「お念仏、御回向」にちなんだ絵を画いたもので、杉戸には象や獅子や麒麟等の珍しい行動を画いている。

狩野山楽の襖絵は、玄関の左の方に太閤秀吉の学問所とした牡丹の間があります。

狩野山楽が牡丹の折枝の散らした図案的な襖絵を画いています。

鶯張廊下は、本堂の廊下は総て左甚五郎の造ったうぐいす張りで有名です。







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【曼殊院】-京都-左京区-一乗寺付近


この寺は、竹内門跡とも言い京都五箇室門跡の一寺に数えられる。

最澄が比叡山に創建し、後に西塔北谷に於いて東尾号と呼ばれた庵の別院を起源とする、桃山時代に足利義満の北山荘造営のあおりで移転。

15世紀後半、慈運法親王が入山して以後、法親王入山の寺となり宮門跡寺院に列に加わる。

1656年良尚法親王の時代に徳川幕府の援助もあり現在に地に移転する。

諸芸に秀でた良尚法親王の好みで、細部まで桂離宮を意識した建築など多くの文化財を残している。

日本の三不動の一尊と言われる、国宝に○黄不動(平安時代・複製開示)○古今和歌集(色紙・曼殊院本・平安時代)を所持し大書院・書院・八窓茶室が重要文化財の指定を受け宸川など古文書も多く存在し,小堀遠州の好みとされる庭園・狩野探幽の襖絵等と共に紅葉の名所として知られている。

 
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